buddhist

蛍堂について

東京蛍堂は道具商であり、古物商店です。

”来店された、お子さまから御年配まで、古物をきっかけとして世代を繋ぐこと。
そして、尊老の経験から学び、それを活かし時代を紡ぐこと”。
これを目標として日々営業しております。

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東京に蛍の集まるお堂を作る

東京に蛍はいないが、蛍の様な純粋な人はきっといるのではないか、、そんな人たちが集まるお堂(寺子屋:勉強になる場所)そして、ほたるが好む純粋な水を維持すべく、営んでいきたい、、と云うおもいで東京蛍堂という屋号を命名しました。

日本と云えば、東は浅草西は京都。
気取らぬ土着の庶民のパワー溢れる浅草に陣を置き、自らも学びながら日本の原点回帰を考えて参ります。

休日は地方に出向き、古物を仕入れをしております。
そして見聞を広めると共に、どんな風に”古物”が使われてきたかを勉強し、東京に持ち帰ってから物が使えるまで、掃除、修理、知識を入れて営業。
売り上げのガソリン代を頂き、また地方へ…を繰り返しております。

ゆきずまった東京の価値感を外(地方)から見直す作業。
貰ったお金はこの店に一票入れてくれたというバロメーター的な思いで気合入れて毎日頑張ることができています。

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野口食堂のこと

大正ロマンの会を主催していた店主が、いつでも帰ってくることのできる場所があればいいなぁ~と、6年間探していました。そんな中表に出さない物件を紹介していただく機会が・・・
それが現在の東京蛍堂、「野口食堂跡」との出会いでした。
大正時代からあった大衆食堂の従業員の宿舎跡地として残ったらしく、現在の浅草公会堂前に一棟(豪華木造三階立て)そして、こちらの一棟を中心に半径五十メートル程、一帯が野口食堂関連跡地で、何棟も建て増しで広がっていった様です。

当店内奥に参りますと、冷っとする半地下室が、食品の貯蔵庫。その上、中二階が控え室、アプローチ横が食堂メイン部分。
二階や繋がっているところは、従業員が住んでいたようです。(東京蛍堂の後ろにあたる現:ヨシカミさん、試着室から繋がる裏の現:韓国料理店シルバーショップの現:マースさん辺りまで)インテリア内装を見ていると1950~60年くらいの素材なので、これはベースの上からリフォームしたのだと思われます。

そして、時代が変わり町も変わり、ここだけが取り残されてしまっている状態なのです。

注意して散策して見て下さい…。至る所にその形跡が…。

店内にある当時の従業員の集合写真には、何かのお祝い事のようで、かなりの人数で写っていますから、大変規模が大きかった事が窺えます。

そして驚いたのは、内装途中にこの写真が額ごと落ちてきたので、呼ばれたな…”、これは、やるしかない”と…、当時のオリジナルの風合いを意識しながら、三年位かけて手作りで少しずつ内装しました。(漆喰、床等)

野口食堂は、成瀬巳喜男監督『乙女ごころ三人姉妹』(1935年トーキー第1作)にも、活気ある浅草風景の中に出てくる様です…。見たい!もう100年前の事なので未だ、野口食堂については探索中…情報求ム

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東京蛍堂のこれから

借屍還魂(しゃくしかんこん、屍を借りて魂を還す)

大正ロマンを切り口に、自分のルーツを探求すべく、骨董から教わる歴史と、ついでに日本の事を勉強して迷っている若者も未来へと連れていく。

事上練磨しつつ商品をレベルアップして、身の丈で、人とものに出会い進んで行きたい。
骨董を生業とし、ものを囲わず”活かす骨董に…”

嘆いているばかりの人生より逆にこんな良い時代だから、思い切って自分が愉しんでやる仕事で小さくても幸せなコミュニティーを作りたい。そして、蛍が集まる泉を純粋に保ちたい。

そんな思いで営んでおります…